フジテレビほかで放送されたアニメ「いぬやしき」。
私も最近Amazonprimeで久しぶりに観ました。
原作漫画の迫力ある世界観を、アニメでも忠実に再現した作品です。
主人公の犬屋敷壱郎(いぬやしき いちろう)は冴えない中年男性ながら、ある出来事をきっかけに超人的な能力を手にします。
一方、獅子神皓(ししがみ ひろし)は、同じく能力を得たものの、暴走する青年として描かれ、作品のテーマである「正義とは何か」「人間の尊さ」を考えさせられます。
今回の記事では、アニメ「いぬやしき」の感想を交えつつ、獅子神皓の心理や犬屋敷の自己犠牲の尊さを解説していきます。
犬屋敷の自己犠牲と人間としての尊さ
犬屋敷は平凡なサラリーマンで、家族との関係もぎくしゃくしていたさえない中年。
職場でも存在感はなく、家でも邪険にされ、疎外感を感じながら生きてます。
しかしある日、公園で宇宙船と遭遇。
超人的な力を得たことで「他人を助ける」という使命感に目覚めます。
犬屋敷の行動の根底にあるのは、自分の命よりも人の命を優先する自己犠牲の精神です。
事件や事故の現場で力を使い、危険を顧みず人々を守る姿には胸を打たれます。
また治癒能力もあり、コッソリ病院に訪れ子供や病人たちを治療して回ります。
単なるヒーロー像ではなく、普通の中年男性が限界を超えて行動する姿は、視聴者に「人としての尊さとは何か」「真のヒーロー」とはを考えさせます。
私にもこんな力があったら、犬屋敷のように使いたいなあ。と、憧れます。
優しさや正義感は、アニメの中でも最も感動的で重要な要素の一つです。
獅子神皓の行動はなぜそこまで過激なのか
一方、獅子神皓は同じく超能力を持つものの、行動は極端で恐ろしいものです。
彼の暴走の裏には、現代社会に対する不満や孤独、周囲との軋轢が存在します。
つまり、能力を得たから暴力を振るうのではなく、心の闇や社会との摩擦が引き金になっているのです。
でも自分の母親に対しては並々ならぬ愛情を持っており、その愛情を周りにも同じようにあたえることは出来ません。
人を殺すことに罪悪感はなく、無感情に殺戮する姿はまさに悪魔の申し子。
その残虐性や冷酷さは強い衝撃を与えますが、同時に「彼もまた人間であり、何かに苦しんでいる」という複雑な感情も後半芽生えます。
この構造が「いぬやしき」を単なるアクションアニメではなく、人間ドラマとして成立させる大きな要素です。
犬屋敷と獅子神皓の対比が描くテーマ
アニメを通して印象的なのは、犬屋敷と獅子神皓の対比です。
-
犬屋敷:自己犠牲を惜しまず、弱者を守る
-
獅子神皓:孤独や不満を暴力に転化する
この二人の対比によって、「能力を得た人間はどう生きるべきか」「力を使う意味とは何か」というテーマが浮き彫りになります。
視聴者はただの戦闘シーンや派手な描写を楽しむだけでなく、倫理観や人間性についても考えることができるのです。
この年でみた「いぬやしき」の感想は、行き過ぎる自己犠牲はどうかと思いますが、やはりどうせなら人が幸せになる方に力を使う方が、自分も幸せだということです。
自己犠牲の切なさと尊さに胸を打たれる
個人的に最も心に残ったのは、犬屋敷が自分の命を犠牲にして人を守るシーンです。
年齢も体力も限界に近い中で、他人のために力を尽くす姿は、単純に「かっこいい」だけではなく、切なさや尊さを強く感じさせます。
獅子神皓の行動を通しても、力を手にした人間の可能性と危険性が描かれ、物語に緊張感が生まれます。
この二人の存在によって、アニメ全体が単なるアクションやSFではなく、深い人間ドラマになっていると感じました。
まとめ|「いぬやしき」は人間ドラマとしても必見
アニメ「いぬやしき」は、人間ドラマ・アニメです。
単なる能力バトルやアクションだけでなく、人間の本質や倫理観を描いた作品です。
-
犬屋敷の自己犠牲に胸を打たれる
-
獅子神皓の暴走から人間の闇を考える
この両者の対比が、視聴者に「人としてどう生きるか」という問いかけを与えています。
最終回を見終えた後、心に切なさの残る作品です。
自己犠牲の尊さ、暴力の恐ろしさ、人間としての在り方――。
こうしたテーマを感じながら視聴することで、「いぬやしき」はより深く楽しむことができます。
私達にも腕力や特殊な戦闘能力はなくても、微力ながら人のためにできることはあるはずです。
「社会貢献」なんて大きな言葉じゃなくても、子供のためにご飯作ったり、掃除したり仕事に行ったり。
困ってる人に声をかけたり。
そんなことが小さな一歩なのかな。と思わせてくれる作品でした。
コメント